延命寺について

延命寺について

◆延命寺略史

桓武帝の延暦廿一年(802年)僧最澄の入唐に際し、九州に下り、諸方の霊跡を巡拝して航海の安全を祈願した。

その途中、豊前国下毛郡の亀山八幡大菩薩の庵に参籠し、一夜悪夢に感じ、寺を山下に建て大菩薩の尊像を安置した。これが延命寺の起源である。
菩薩の霊験あらたかで、参詣の人々の絶えることはなかったが、その後九百年の歳月を重ね老廃した。

宝永元年(1704年)小笠原二代藩主忠雄公御帰依の名僧霊済法印大いにこれを嘆き、今一度名刹の昔に復興したいと、再興を忠雄公に願い出て、正徳元年(1711年)城外の赤坂山上に大伽藍を創建し、延命寺をここに移し、更に足立不老山下より東照大権現宮をも写し、延命寺の住職は代々東照宮の別当も兼務することとした。

延命寺は小倉城の鎮城の東北鬼門に当たり、山号を東北山と名し、藩主より三百石の寺領を賜る。この時、忠雄公の御生母で深く仏法に帰依されたいた永貞院大姉が父君福島正則公の追善供養よ為、場内に諸宗の名僧を召見し、千僧会を供養し、随喜感嘆の余り、延命寺の境内に千体地蔵法華塔を建立された。

その後、延命寺は青連院宮の御配下に移され、九州竃払い座頭の総支配地になった。

また、赤坂山上の眺望は霞がたなびき、眼下には白帆が往来し、領内第一の絶景で、忘言、臨海の二亭を築かれ、小笠原蔵人の別野を営む処となった。この壮大な古刹名場も、慶応二年(1866年)の豊長の変に兵火にかかり、悉く灰塵に帰した。

その後、明治初年(1868年)黄檗宗の僧田中芝玉和尚が、菜園城にあった妙行寺を引き移し小庵を立て、不老庵と名し、隠遁の居と豊長の変の陣没兵士の霊を慰めた、芝玉和尚の没後、黄檗宗四十三代管長鷲峰紫石和尚が管長を退任後、灰塵に帰した旧跡を惜しみ、明治四四年(1911年)消失を逃れた赤坂山上の観音堂に残存する小仏像を現在地(上富野四)に移し、大正三年(1914年)延命山観音寺を創建し開祖となった。

その後、寺号を元の名の東北山延命寺に改め現在に至っている。宗派は黄檗宗(禅宗)である。

 

◆榊姫記念巌

榊姫記念巌

榊姫は平重盛の二男資盛の娘で「榊内侍」と呼ばれ、安徳帝に仕えた。寿永二年(1183年)資盛は越中国砺波山で、木曾義仲に敗れ討ち死にした。

以来榊姫は都を追われた平家一門とともに九州に落ち、太宰府、遠賀郡山鹿城(芦屋町)、豊前柳ヶ浦(門司区)大里へと帝を供奉してきたが、不幸にも帯下の難病にかかり、老女と共に長浜の海女の粗末な家に伏す身となり、「私は死後榊に宿り帯下に悩む人々を救わん」と言い残して世を去り、長浜の東の高浜に葬られた。その後は、「帯下の病に悩む人、榊姫に祈願すれば霊験あらたかなりと聞く」。

榊姫神社があったところは、私鉄の小倉鉄道が大正二年から高浜海岸を埋め立て、石炭積出の貯炭場と石炭積込場にするための工事を始め、大正三年工事を請け負った小林徳一郎が、榊姫の霊を弔うため、敷地内の岩石にて記念巌をつくり、延命寺に寄進した。

境内の記念巌の表には「榊姫記念巌」、裏には「大正三年十月 小林徳一郎にこれを建てる」と刻まれている。

 

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